マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

慧眼(けいがん)

気が付けば今年も、もう4ヶ月以上経ちましたが、正月に実家に帰った時に、ふと思ったことを書きます。

私には2人の兄がいて、長兄が、実家の零細企業のアパレル会社を経営しており、29歳で社長を継いで、今年でもう17年になります。

その会社も、父親が創業してから今年で30周年です。

よく日本の企業寿命「30年説」といわれますが、よくここまで来られたなと感心します。

父は54歳で病死したので、実際には創業から5年しか経営しておらず、兄が継ぐまでの約8年間は、父の右腕だった方が社長をして下さいました。

なので兄は、社長としては3代目になります。

父が亡くなったのが、90年2月です。

当時私は、15歳で中学卒業間近でした。

その直後バブルが崩壊し、日本は長い不況に入って行きます。

父は昭和の経済発展と共に生き、それ(バブル崩壊)を見ることなく逝きました。

そういう意味では、彼は幸せだったのかもしれません。

その後の会社の取引先は、何件倒産したか分かりません。

それでも実家の会社が潰れなかったのは、兄やスタッフの頑張りもさることながら、日本三大商社のひとつ伊藤忠商事と直に取引があった所が大きいです。

父がまだ創業して間もない頃、飛び込みで営業して、契約を取りました。

当時は好景気とはいえ、零細企業のオヤジが、御堂筋沿いの大阪本社ビル(旧本社)に、アポなしで、いきなり入って行って仕事を取るなんて、普通は考えられません。

これは伊藤忠のアパレル部門でも語り草になっており、兄も当時を知る人によく言われたそうです。

父はとても度胸があり、口が上手く、はったり、カマシ、の天才でした(彼の名誉のために申しますが、とても真面目で人情味があり、誠実で、決して人を裏切るようなことは致しません)

何というか、人を自分のペースに巻き込むのが上手い、天性の営業マンだったのだと思います。

まさにイケイケの派手な冒険的好きの、創業者タイプでした。

父の片腕だった次の社長は、逆にまったく冒険をしないひとで、何事も無難に進める保守的なタイプ(父が亡くなったので、やむ負えず就任した感じでした)

そして3代目の兄は、冒険と保守、戦略的で攻守のバランスがあり、何でも熟慮し行動する先代2人の中間タイプといったところです(これで何度も危機を乗り越えて来ました)

世の中上手く出来ているのもで、もし父が長生きしていたら、冒険ばかりして、とっくの昔に廃業していたかもしれませんし、ひとつ前の先代も何もしないで自滅した可能性大です。

その点、兄は非常に苦労人で、進退や駆け引きの上手さがあり、私はとても尊敬していますし、今でもぜんぜん頭が上がりませんが、その兄が今でも父のその部分(無茶な営業力)では、はかなわないと申しています。

父は末っ子の私がかわいいらしく、存命当時よく二人で近所の銭湯に行きました。

家にお風呂はあるのですが、そこは、サウナやスチームバス、薬湯、電気風呂など設備が充実しており、お湯も温泉なので、よく通いました。

サウナに入っている時、父の隣のおじさんが話かけてきました(父はよく、知らない人から話しかけられる人でした)

子供なので難しい事は分かりませんでしたが、話題は景気についてで、その方がインフレになると言ったところ、父はそれを否定し、これからはデフレになると言いました。

まだ好景気まっただ中で、バブルなんて言われていない頃でしたし、デフレなんて言葉自体も、私は聞いた事がありませんでした。

そのおじさんも、父の話にキョトンとしていました。

世間でバブル崩壊就職氷河期と騒がれ始めたのが、それから2,3年後です(92年位まで、不況が表沙汰になるのは、少し時間差がありました)

デフレ不況と言われたのは、それよりもずっと後です。

父がどこまで予測出来ていたのか、今となっては分かりませんが、株価も上がりっぱなしのまだ89年頃の時点で、日本のその後を預言者の様に当ててしまったので、我が父ながら慧眼(けいがん)だったと思います。

自営を始めた今の私があるのも、この父や兄の背中を見てきたお陰なので、誇りに思うと同時に、とても感謝しています。