マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

太田牛一

昨日、録画しておいた番組、NHK歴史ヒストリア「英雄を記録した男 太田牛一」を観ました。

太田 牛一 (おおた ぎゅういち)

かの有名な「信長公記」を書いた人物です。

通常日本の歴史書は、物語調にして大衆向けに出版された読み物や、政権にヨイショして書かれた物など、脚色されて資料価値の低い物が多いのですが、信長公記は、歴史資料としては一級の評価を得ているものです。

それもそのはず、信長の側近だった牛一が、大の記録魔で、ひたすら書き貯めた自分の日記を編纂して作った物だからでした。

しかも彼は、元は僧侶出身で、旅の僧に「たわけ」「うつけ」と呼ばれた頃の信長が、「実は将来大人物になるだろう」と聞き、寺を飛び出して信長に仕えたそうです。

そこまでする行動力にも驚きですが、無名時代の信長の能力を評価した旅の僧侶もすごいと思います。

しかし、斉藤道三や朝倉宗滴の例もありますし、観る人が観れば、信長の将来性は分かったのかもしれません。

番組を見るまで、太田牛一は織田信長の右筆(秘書、事務官)だとばかり思っていましたが、実は弓の扱いが上手く、戦で実際に武功を上げ、それがもとで信長の側近に取り立てられた人物でした。

その後も京で、寺社との交渉などに政治的手腕を発揮する傍ら、趣味の信長の記録を続けました。

そして本能寺の後、晩年になってから、自分の長年の記録を編纂し、15巻にも上る記録「信長公記」に編纂します。

本能寺の変では、牛一自身は、そこに居合わせなかったので、詳しい状況が分からなかったのですが、その後、独自に取材してまわり、生き残った侍女の話を聞き、信長の最期を記録しました。

執念、そして、ジャーナリストの走りです。

現在の私達には、武士の忠誠心は分かりずらい部分もありますが、牛一は本当に「信長大好き人間」なんだと思います。

実際に仕えてみて、その人物に魅了されたのでしょう。

そこまで大好きになれる。

そんな出逢いが出来き、近くで見つめることが出来た彼の人生は幸せだと思います。

彼の文才は、僧侶時代に培われた物でしょうし、武功もあり、行政も出来る非常に優秀な人物だと思います。

当時としては大変長寿で、86歳まで生きました。

秀吉や家康の書物も書いたそうですが、彼の人生は、まさにドキュメンタリーである信長公記を編纂するためにあったと言えます。

今日、彼のお陰で英雄の実像を知ることが出来るので、偉大な業績に感謝です。