マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

取り違え裁判

今から60年前の子供の取り違えで「人生が狂った」と、病院を相手に起こした裁判で、原告の60歳の男性が勝訴。

裁判所は慰謝料として病院側に、3800万円の支払いを命じました。

本当は裕福な家庭に生まれたにもかかわらず、取り違えで貧しい母子家庭で育ち、苦労した人生。

まるで漫画や映画の題材の様な話が、現実にあるなんてショックですが、昔の病院の管理体制は誠にずさんで、他にもこういったケースは、あるだろうとの事。

男性には同情しますし、本当に悲劇だと思いますが、判決の条文に少し違和感も感じます。

貧しくて中卒で働き出し、大学にも行けなかったのは同情しますが、もしこれが本人が実子なら誰にも文句は言えませんし、それに対して誰も慰謝料は払ってくれません。

結局自分の人生は、最終的には自分の責任です。

ちゃんと成人させてもらえただけで、育ての親には感謝出来るはずですし、その後の人生は本人次第でしょう。

この男性は、育ての親や兄弟たちには感謝しているし、関係も良好で、あくまでもこの悲劇を生んだ病院側に責任を追及しただけなので、男性の訴え自体は理解できます。

しかし私の感じる違和感は、司法が「経済的に恵まれたはずだったのに、貧しい家庭で苦労を重ねた」ことに慰謝料の支払いを命じていることです。

人は、基本的人権以外にも、生まれながらに「財産や環境」も所有していると言う解釈なのでしょうか、そこになんとなく不公平感があります。

もちろん世の中、生まれる環境は平等ではありませんが、司法がその生まれた環境の権利を認め、賠償しろと命じている様にも見えます。

もしそうなら、実子で貧困家庭に生まれた人達が、かわいそうです。

慰謝料の支払い自体には異論ありませんが、「経済的に恵まれなかった」ことではなく、「真実を知らされた事によるショック」や「真の肉親との失われた時間」に対しての慰謝料である、との表現の方が良いような気がします。

この裁判のニュースを見て、色々な思いが込み上げて来ました。

「人は生まれながらに平等ではない」その事実を改めて思い知らされるのと同時に、

よく格差社会、貧困の連鎖、などが問題視されますが、本当に「機会の平等」だけは確立してほしと願います。

そして障害を持って生まれる人にも、幸福な社会になったらと切に願います。