マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

竜馬がゆく

最近「竜馬がゆく」全8巻を読み終えました。

昭和の大作家、司馬遼太郎氏の代表作です。

読んだのは今回で、3回目です。

1回目は19歳の専門学校時代で、2回目は26歳の社会人、そして今回は39歳の自営業者としてです。

1回目は、竜馬一人の英雄譚を、自分も「いつかこうなりたい」と言う強い憧れの気持ちで読みました。

2回目は、社会人になり視野が広がり、竜馬だけでなく幕末志士達の青春群像劇や、歴史の勉強として、いけてない自分の現実と比較しながら、それでも「自分なりに、彼らに近づきたい」と言う悪あがきと現実逃避に似た気持ちでした。

3回目の今回は、幕末維新の時代の大きな流れと、そこに生きた全ての人々の日常を、現在の我々と対比し想像しつつ、そこに以外と現代と変わらない普遍的な人の営みや人生観に共感しながら、自分が竜馬よりも、はるかに年上(享年33)になったにも関わらず、未熟で愚かしい自分に呆れ、完全敗北を認めた上で、また原点のただただ憧れていた気持ちに立ち返って、この英雄譚を読みました。

読み終えて、改めて坂本龍馬こそ「真の英雄だ」と思いました。

よく司馬さんの作品はフィクションで、かなり事実と違うと言われますが、大政奉還船中八策薩長連合に関わっていましたし、日本最初の海運株式会社、海援隊亀山社中を作り、神戸海軍操練所の塾頭を務めたのも歴史的事実です。

竜馬は作品中の様に、実際は剣術の達人では無かったと、アンチは指摘しますが、剣の腕なんてどうでも良い事で、竜馬は革命家、思想家、政治家、起業家として語られるべき人物であり、テロリストとして京都で暗躍した連中と同じ目線で語られる存在ではありません。

それに龍馬は、江戸の三大道場である北辰一刀流千葉道場の塾頭も勤めているし、その最期でも頭と背中を切られながらも、剣を取り、鞘ごと相手の攻撃を受け止めた体力と精神力は、十分超人的な強さです。

性格はもしかしたら、作品中の様に豪放磊落で、落ちこぼれからのし上がった英雄的人物ではなかったかも知れませんが、とんでもなく優秀で、影響力のある人物であったことは、間違いないでしょう。

これからも織田信長とならんで、日本人離れした型破りの英雄として評価され続けて欲しいです。

何せあのキューバ革命の英雄「チェ・ゲバラ」が、龍馬を尊敬していたくらいです。

こんな人がいないと、世の中面白くありません。

それはともかく、司馬さんの筆の力は本当に素晴らしい。

あのものすごい取材力は新聞記者時代に培われた物でしょうが、何といっても作品に流れる「哲学」に引かれます。

「この長い物語は、無数の傾斜した性格をもつ人物群をえがくことによってここまで進んできた。圭角(かど)のある、傾いた、どこかに致命的な破綻のある人物が、無数に登場してきた。」

「それらの男どもは、圭角と傾斜と破綻があるがゆえにいつも自分の真実をむき出してきたのか、それとも自分の真実をむき出してしまっているがために圭角ができ、傾斜ができ、破綻ができたのか、その相関関係はよくわからない。」

「ただ安政以来、日本史上最大の混乱のなかで奔走してきたこれらの型の男どもは、その圭角と傾斜と破綻と、そして露わにむき出した真実のために非業のなかで死んだ。」

(8巻本文抜粋)

私はこの文章に、司馬文学の「真髄」を見ます。

司馬さんは、歴史とそこにに翻弄されながらも、自己のあり方に従い、ことを成し遂げた人物像を、見事に描き続けました。

彼の他の多くの作品も、ことを成し遂げた人物たちの内面の破綻や傾斜、行動原則、強い想いなど、いつもこの辺りの相関関係を考えさせられます。

ことを成す人物のマインドと行動力、そして、そんな英雄たちの自己表現の根底に流れる「悲哀」に、とても惹かれます。

私も竜馬や司馬さんには遠く及びませんが、厳しい現実と戦いながら自分なりに人生を自己表現の場ととらえ、精一杯、なにごとかことを成し遂げたいです。

次に読むのは、いつになるかは分かりませんが、いつでも19歳だったあの頃に戻れ、いつまでも「青春」を感じられる素晴らしい作品です。