マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

死生観

ノルディック複合ノーマルヒルで、渡部暁斗さんが銀メダル。

リレハンメルの荻原さんからもう20年ぶりと聞いて、時の速さに驚かされます。

私も今年の12月で40歳です。

人生80年の時代ですので、ここでやっとまだ折り返し地点ですが、私たちの世代が80代になる40年後は、医療や健康産業も同じく40年進歩しているので、平均寿命が100歳まで伸びる可能性は十分あります。

それはともかく、この年になると「人はいつか必ず死ぬ」という当たり前の現実を、徐々に意識する様になります。

体毛に白髪が混じり、頭が薄くなり(これは老化は関係ないかもしれませんが)、兄夫婦に甥っ子が生まれ、次の世代や時代を感じたりと、私もいつしか自分の「死」について考える様になりました。

一番最初に死を考えたのは、15歳の時に病気で父親が亡くなった時です。

父はまだ54歳でした。

その時はショックでしたが、以前にも倒れていたし、ある程度覚悟は出来ていました。

それに自分はまだ子供なので、これからまだ十分な時間が残されていると思っていましたし、それほど深刻に自身の死は考えませんでしたが、それでも人は死ぬという当たり前の現実を目の当たりにして愕然となったのを覚えています。

親から何を学ぶかは人それぞれでしょうが、その死を見届けるのは、子の役目であり、生み育て、自身の死を見せるまでが、お手本としての親の最期の教育や役割だと感じます。

なので子が先に死ぬのは、一番の親不孝だと言われるのも納得出来ます。

その後、親戚も多く亡くなり、割と人の死については、受け入れることが出来る様になって来ていましたが、私自身の死については、4年前のフィジー留学の時に、強盗にナタで襲われ頭を負傷した時が、一番強く感じました(詳しくは過去の記事「ラウトカ学生寮襲撃事件」をご覧ください)

それ以来、私の「死生観」は大きく変わりました。

人生このままではダメだという危機感が強くなりました。

人生=時間です。

「やりたいな」「やるべきだろうな」では、人生終わってから後悔します。

驚くほど速く時間が過ぎ去ってしまいます。

なので今では、やりたいこと、やれることは全力でやる様に心がけています。

それと同時に自分が何かの「見えない力」に守られている気もします。

あの日、あのとき、助かったのは、自分にはまだ「やるべきことがある」のだと感じました。

歴史上の偉人たちも、身近な人の人生も、本当にドラマチックです。

人から見ると、みな何かの役割やテーマに生きている様に見えます。

歴史作家の司馬遼太郎さんは、歴史上の「完結した人生」をみるのが面白いとおっしゃっています。

私のテーマは、まだはっきりとは分かりませんが、おぼろげながら、これまでの成長とプロセスは見えて来ていますし、そこにある種の法則性も感じます。

「人はいつか死ぬからこそ生きる」

やるべきことを見つけるためにも、時には自身の死について考えるのも、非常に有意義だと思います。