ハンデキャップ
ソチで、パラリンピックが始まりました。
開会式の模様を少し見ましたが、思いのほか規模が大きく、お金が掛かっているなという印象です。
パラリンピックの歴史は古く、夏季五輪は1960年から、冬季五輪では1976年からで、参加国も年々増え続けている模様。
日本では90年代以降になってメディアで取り上げられ始め、素晴らしい記録を出す日本人選手も紹介されています。
義肢や車いすも年々進化し、競技によっては健常者よりも有利になって来ているものもあるくらいです。
近年では法律も整備され、公共施設もバリアフリー化されて来ており、ハンデキャップのある人達に対する社会の意識やあり方も変わって来ています。
電車に乗っていても、車いすの方を駅ごとにちゃんと連絡を取り合い、その乗降の補助を駅員さんがしているのを頻繁に見かけます。
今まで私の周りには、家族や友人にもハンデキャップのある方はいませんでしたので、意識することもなかったのですが、最近では以外と多いものだと気付かされるようになりました。
環境と意識の変化で、活発に活動される方も増えたのでしょう。
そのことは、とても素晴らしいと思います。
その様な中、両足義足の陸上選手で「ブレードランナー」こと、オスカー・ピストリウス氏の殺人容疑やドーピング疑惑は、パラリンピックでの素晴らしい数々の記録を自ら否定する形になってしまいました。
障害を克服して活躍したのに、それを裏切ったという意味では、昨日謝罪会見をした作曲家の佐村河内氏も同じです(彼の場合、ろう者であること自体が嘘でしたが)
しかし、考えてもみれば、ハンデが有ろうと無かろうと、人間である以上は罪を犯す可能性は変わりません。
彼らの行いは、そのことについての問題提起に繋がると感じます。
社会的弱者と呼ばれる人々が、同情され、保護されることに慣れ、それを逆手にとって権利を主張し、強圧的な態度に出る団体などが存在することは、どうかと思います。
メディアの表現に対して、別に差別する意図なんてまったくない物にまで抗議するのは、過剰な被害者意識や権利意識から来るのでしょうか。
生活保護の不正問題なども、それが本当に必要な人もいるし、この辺りのバランスは非常に難しい問題です。
広い意味では、女性差別もそうかもしれません。
現在の日本では、これらの差別よりもむしろ、団体の圧力が怖かったり、面倒なので、さわらぬ神にたたりなしと、みんなアンタッチャブルになっている気がします。
それが本当の意味で、彼らの目指す権利向上に繋がっているのか正直疑問です。
声高に権利を主張する彼らを見て、何となく息苦しさや、極端な話、時として暴力的だとさえ感じるのは私だけでしょうか。
電車に乗ると、痴漢の冤罪なども怖いです。
話が少し広がり過ぎましたが、この先、義肢や医療が進歩すれば、それ自体が特別な事ではなく、ハンデのある方への意識が、差別でも、同情や過保護でもなく、自立したひとりの人間として、その業績をまっすぐ真ん中から評価される世の中が来ると思います。
上記の2人の事件は、ハンデのある方の成功を特別だと、過剰に、無条件に称賛することではなく、もっと冷静に受け止めて判断すべきだと、考えさせるきっかけに繋がる、象徴的な出来事かもしれません。