マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

刹那の幸せ

新しいジョギングシューズを買いました。

もちろん買い物は、いつものAmazonです。

靴も服も通販で買うようになり、本当にお店に行かなくなりました。

たとえジョギングシューズでも、自分のサイズ(26.5)で、どのメーカーでもほぼ間違いないので、ためらわずに買います。

デフレが長く続いたので、強いこだわりさえなければ、日本のある程度名前の通ったメーカーならどれもそれほど遜色はなく、安くても(3千円以下)十分な品質の商品が買えます。

箱から出し初めて紐を通す時は、いつもワクワクしますし、新しいゴムの匂いも好きです。

これは子供のころから今に至るまで、まったく変わりません。

精神的に成長していないのではと、少し不安にさえなりますが、いつまでもみずみずしい感覚で生きているんだと、プラスに考えるようにしています。

年を取ると、一般的にだんだん物事に感動しなくなると言われますが、それはある程度は仕方のないことかもしれません。

しかし、この感動する感覚が鈍くなるのは、とてももったいない事です。

人生突き詰めれば、「どれだけ感動したか」で決まるといってもいいでしょう。

その昔、世界を奪取したボクサーが、嬉しいのは勝ったその一瞬だけで、すぐあとは次の試合を考えているという意味の事を言っていました。

これは本当にその通りだと思います。

先日のAKBの総選挙などでも、結果が出た瞬間が喜びのピークで、本人もそのあとは徐々に我に返ったのではないでしょうか。

思えば感動は全て「刹那的」かもしれません。

刹那とは仏教用語で時間の最小単位を表し、一回指をはじく瞬間に60~65刹那あるそうです。

刹那的という言葉は、あまり良い意味では使われませんが、実際はみんなこの刹那を追い求めて生きている気がします。

目標が大きければ大きいほど、この素晴らしい感動の刹那を感じるのには準備に何年もかかりますし、失敗すればそれを感じるどころか、絶望したり、挫折したりと、逆に悲しい気持ちになります。

もちろん達成すれば、必ずしもその恩恵は刹那的ではなく、生涯の栄光になり、地位や名声、収入アップなどの多数の恩恵に恵まれ、人生最高の経験にもなりますが、感動のみは常に一瞬です。

望む仕事の結果も、欲しい物を手に入れるのも、好きな異性と結ばれるのも、喜びの瞬間は一瞬。

そう考えると少し切なく、空しい気持ちにもなります。

刹那主義という言葉は、今さえ良ければどうでも良く、後先を考えない、アリとキリギリスのキリギリス的な考えで、あまり良い意味では使われませんが、お釈迦様の本来の教えは、「一瞬、一瞬を大事にして生きる」という意味なのだそうです。

別に特別な瞬間を追い求めなくても、感動はいつでも私たちの周りに満ちています。

もちろん大きな目標を達成するために努力するのは素晴らしい事ですが、必ずしも感動は達成した後でなくても良いのです。

よく感動は「達成してからのご褒美として、とっておかなければならない」と思っている人がいますが、そんなことはありません。

いつ感動しても良いし、感動しながら達成すればいい。

いつでも、どんな時でも、どんな事にでも感動できる。

そのことに気付けば、人生は常に幸福です。