宗教観
先日浅草の浅草寺で、サウジアラビア人の留学生によって4体の仏像が破壊されました。
この仏像は、300年以上前の貴重な仏像だそうです。
このニュースを聞くと、2001年にタリバンによって破壊されたバーミヤンの仏像の事件が思い出されます。
だからといって、異教徒の習慣を否定するまでの権利はありません。
もちろん実際に破壊活動まで行うのは、一部の過激派などの原理主義者だけですし、この留学生の動機がどこにあるかは分かりませんが、歴史的な遺産を破壊することは、宗教云々以前に人道に反します。
今後移民政策を推し進めれば、こういった事件が増える可能性は大いにあります。
その点だけでも、私は移民に反対です(もちろんそれ以外にも、反対する理由は沢山ありますが)
とかくイスラム教は、教義が厳しい宗教です。
私は以前フィジーに留学していたころ、面白い経験をしました。
フィジーでは、イスラム教とヒンズー教、キリスト教(カトリック)の三大宗教に分かれており、さながら宗教の世界情勢を、フィジー国内に小さく集約したかのような状態です。
そこには歴史的背景があり、イギリスがフィジーの植民地化政策として、現地人(フィジアン)にキリスト教を広めました。
そしてサトウキビのプランテーションを作ったのですが、フィジアンがあまりにも怠惰で使えないので、他のイギリス植民地であるインドから大量の労働力を運んで来たのです。
現在、彼らの子孫がフィジー全人口の約半数にもなるインド系フィジー人になり、原住民であるフィジアンと宗教や民族問題でいまだに対立しており、根深い社会問題になっています。
フィジアンは、ほぼカトリックなのですが、インド系はイスラムとヒンズーに分かれています。
ある時、巨大なハリケーンが、私のホームステイ先の街を襲いました。
被害は甚大で、家の近所にある大木が倒れたり、少しですが床上浸水もしました。
次の日は、学校も休校になり、暇を持て余した私は友人と街で待ち合わせをしました。
街全体が停電し、あちこち木が倒れ、商店も掃除や復旧に忙しそうです。
友人を待っている間、海を見ながらお気に入りの場所で、午前中からひとりビールを飲んでいました。
するとどこからか、インド系の40代前半くらいの、少し不思議な雰囲気の男性が現れて、私に話しかけて来たのです。
彼は私に「お前の宗教は何か」と尋ねました。
ぶしつけな質問だと思いながらも、私はこう答えました。
「特定の宗教はない」と、そしてこうも言いました「この世は、クリエーター(創造主)によって創られた」
「キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、仏教も、神の名前が違うだけで、実はあがめているものの本質は、みな同じこのクリエーターだと」
彼はイスラム教徒だと言うので、私は逆に聞きました。
イスラム教の創始者ムハンマドは、自分たちが旧約聖書に出てくるアブラハムの子孫だと言っていると知っているかと。
そして、キリストが天の父と呼んだのは、旧約聖書のヤハウェ(ヤーウェイ)であり、実は、イスラム教もキリスト教もルーツは同じだとも。
その質問に対し彼は、静かに「知っている」と答えました。
私は続けて、本質的には兄弟ともいえるキリスト教徒やイスラム教徒が争うのは、とても愚かな行為であると伝えました。
私の拙い英語力で、どれだけ伝わったかは分かりませんが、私の話を聞いて、彼はかなり驚いている様子でした。
そして言葉をゆっくり選びながら、「お前の言っていることは、恐らくは正しいが、その考えは他人に言わない方が良い」と優しく静かに忠告してくれました。
しかし私は、そんなことは元より承知でした。
宗教のタブーを犯したり、神を冒涜するのは、国や相手によっては下手をすると死をも意味します。
これは今日の日本人には分かりにくい感覚であり、海外に行った時は、特に注意が必要です。
しかし私は彼を見て、最初から何となく不思議な雰囲気と、知的で物静かな印象が、この人に危険はないと直感で判断していたからと、ここには他の誰もいないし、ビールでほろ酔い加減だったのも手伝って、思い切ってそんな話をしたのです。
今にして思えば少々無茶でしたが、彼の驚いた表情と、私に忠告する時の苦悩に似た複雑な表情は、今でも忘れられません。
まさか異教徒の外国人の口からこんな言葉が出て来るとは、思ってもみなかったでしょうし、恐らくこんな問題提起は生まれてから一度も聞いたことが無かったでしょう(それこそタブーだからです)
しかし私にとっても彼にとっても、とても有意義な時間であり、貴重な経験だったと思います。
以前に同じテーマ(あなたの信仰はなんですか)を授業でやりました。
その時の先生は、年配のフィジアンの女性で、こちらは敬虔なカトリックでした。
彼女も旧約聖書やヤハウェの話を知っていたし、私の考えにも深く同意してくれました。
私は基本的に無宗教ですし、特定の神に対する信仰心は持っていませんが、やはり大いなる意思(仮に「天」といっても良いでしょう)は、存在すると信じています。
人間の運命は、最終的には、天に定められていると考えています。