マサオのブログ

よもやま話ですが、何かのお役に立てれば幸いです。

ニンともカンとも、 ニンニン

先週末の親戚が亡くなったことによる帰省で、自分のルーツに関する新たな説が出て来ました。

父方の伯父のお通夜に出たのですが、私は家族を代表して、一晩中「線香の番」をすることになりました。

私以外には、いとこ2人やその子供、亡くなった伯父さんの孫など合わせて7人です。

いとこの子供は、「いとこ違い」というそうですが、あまりなじみがありません。

私の父は7人兄弟の末っ子で、しかも私自身も父の子の末っ子(3兄弟)ですので、いとこ達は皆、50代が中心で60代もいます。

線香の番のメンバーには、いとこ違いが4人いて、そのうち2人が、すでに妻帯者でした。

中には30代もいるとはいえ、先を越されたので軽くショックでした(私がいい年をして独身なだけですが)

子供の頃よく遊んであげた子もいて、時の流れも感じました。

しかし、一族がちゃんと繁栄していることは、とても喜ばしかったです。

線香の番といっても、することは線香を絶やさないように寝ずの番をするだけで、とても退屈なので、眠らない様に大抵はお酒を飲んだりしながら、夜通し故人の昔話をするのが供養というものです。

いとこの最年長者(62歳)が中心になって、親たち兄弟の面白いエピソードをたくさん教えてくれました。

知っている話が多かったですが、いとこ違いたちにとっては初めて聴く話ばかりなので、驚いたり感心したりしている様子でした。

夜はとても長いので、いろんな話が出ましたが、いつのまにか我が重里(じゅうり)家のルーツの話になり、そこで新事実が発覚。

一族の過去が、私がこれまで聞かされていた内容と、随分違うことが判明してしまいました。

これまでは、奈良県十津川村に重里(しげさと)という地名があるのですが、そこが重里(じゅうり)家の先祖の地であり、「じゅうり」という奇妙な読み方は、これまでは私の曽祖父が名乗ったと聞かされていたのですが、実はそのずっと以前から「じゅうり」を名乗っていたそうです。

これまでは、曽祖父が明治になって、十津川郷から泉州地方(大阪の南、旧「和泉の国」)に出てきたとばっかり思っていたのですが、実はそうではなく、戦国時代よりも前から泉州もしくは、紀州(和歌山)にいたそうです。

しかも驚いたことに、あの「根来衆」との関わりがあるとか。

根来衆といえば、雑賀孫一の雑賀衆と並んで戦国時代の鉄砲傭兵集団です。

津田監物が、種子島から鉄砲を一丁持ち帰り、それを複製させ、それが元になり畿内一帯で鉄砲を大量量産するようになりました(戦国時代、日本は世界一の鉄砲保有国でした)

しかも根来衆は、その鉄砲を使って各地を転戦し、傭兵稼業をしていたのですから、よほど先進的な人々だったのでしょう。

監物の子も、自由斎なんて名乗っていたそうですから、「じゅうり」というちょっと変わった読み方も、このころの「かぶいた」空気から出て来たのやもしれません。

他にも根来衆は、根来忍術を使う忍者なんて説もあり、自分が忍者の末裔かもしれないなんて、夢が膨らみます。

「ニンジャ」好きの外国人に会ったら、自慢できるかもしれません。